今月のNewtype誌のアニメの門「ガンダムという魔物に対抗する為に」という記事がなかなか面白かった。
筆者の藤津亮太氏は「おたく大賞」の番組などにも出演された経験もあり、なかなか鋭い評論を書かれる方である。
今回は将棋の棋士の言葉を用いて、「表現の荒を指摘してもしょうがない。何故その様な表現をしたのか考察するべきである。」と行った旨の内容で、昨今不評な意見が噴出している「ガンダム00」に関しての評論を書かれていた。
彼はマズイ描写を悪手(指してはいけない手)と表現して今回00の描写の考察をされている。
つまり、自分たち視聴者が「悪手」と思っている物が「より問題のある『悪手』よりましな手として選択された物」か、「悪手に見えるが計算通り」のどちらである可能性が高いという指摘がしてある。
スタッフが「悪手」であることに気が付いていない訳がないのだから、それにはちゃんとした理由があるのではないかという事なのだろう。
ガンダムシリーズのやっかいな所は、作品世界の構築の上でのリアルさに見合っているのかという考察だけでなく、「ガンダムらしい表現であるのか」という部分も考慮せざるを得ない点だと、藤津氏は強く指摘されている。
記事内の藤津氏の指摘はかなり面白い視点から書かれていて、納得する点も多いのだが、ガンダム00の問題は「悪手」の打ち方以前のものではないかという思いも生まれてくる。
自分が一番気になっているのは「アリー・アル・サーシェス」というキャラの使われ方だ。
このアリーというキャラは主人公の刹那の過去に深く関わるキャラだけに、刹那と絡めていきたいという意向はよく解る。
が、しかし、実際の作品中でのアリーの行動は作品を面白くする要素に成り得ているだろうか?
本来、刹那のライバルであるはずの「グラハム」の立ち位置がこのアリーの存在に寄ってはっきりしなくなり、作品の肝のひとつと思われた「絹恵クロスロードがソレスタルビーイングの真の目的を探る」という視聴者も気になる要素は、アリーが絹恵を殺害する事で意味を成さないまま放置され、主人公チームを際だたす為に設定されたと思われる「トリニティチーム」も、その役割を果たす前にアリーに寄って瓦解し、その乗機であるガンダムスローネもアリーが略奪する等という理解しがたい展開をしている。
これらも「悪手」、それも大きな意図のある「悪手」と言えるのだろうか?
ここまで来ると「刹那」を主人公に置いた事その物がこの作品の間違いだったのではないかとさえ思えてくる。
確かに、アリーに寄って「ガンダムパターン」として用意されていた物を壊していく作業をしているように取れなくもない。
グラハムが刹那のライバルになるのはシャア以来のパターンに過ぎないのかもしれないし、トリニティチームはガンダムSEED等で用いられてきた、いわゆる「新規投入の三馬鹿ガンダム」でしかないのかもしれない。
脚本の黒田洋介氏は、所謂「ガンダム」に期待されているパターンを踏襲はするが、お前らの思うようにはしないよという悪意を込めてガンダム00を作っているのだろうか。
彼の以前の作品においては、そういった「世界の破壊」が面白く展開された物が多くあったと思うが、今回の00ではどうだろうか・・・
期待を裏切って面白い場合とそうでない場合は確実に有ると思う。
確かに理解できないが、魅力を感じるという主人公はいたのかもしれない。だが、刹那に近いと思われる「ヒイロ・ユイ」や「キリコ・キュービー」はどうであったろう?
一見理解できない彼らの中に感じた「共感出来るもの」に自分たちは魅力を感じていたのではないだろうか?
自分にとって「刹那」は単に「理解できない人間」に過ぎないようでとても残念だ。
ガンダム00はどこに向かって進んでいるのだろうか・・・
最近のコメント